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大谷翔平の活躍をみて思うこと

前回のコラムに「野球には興味がない」と書いたばかりですが、大谷翔平選手の活躍をみると、今回も野球の話をしないわけにはいきません。100年に一人の逸材と言われほどの結果を今シーズンは叩き出し、目の肥えた記者たちが選ぶメジャーリーグのMVPに満票で選ばれました。

日本のメディアでは大谷選手の父親や高校時代の監督などのインタビューが載り、いかにして大谷選手がつくられたのか、どのような環境や指導者の下に偉大な選手になったのかが紹介されています。

まずはNHKスペシャルでの父親の言葉が印象的です。彼は今でもリトルリーグの監督をしていて、大谷選手とは小さい頃から野球に関する交換日記をつけていたそうです。そこでは試合に勝ったことや、ヒットを打ったことなど数字や結果に注目するのではなくて、一生懸命走らなかったことや、真剣に取り組んだか、声を出したかなど、がんばりや真剣さについて指導していたそうです。

多くの人にとって親や育った環境がその本人に大きな影響を与えるのは自明のことです。面白い話があります。松井秀喜、イチロー、大谷翔平はみな親の助言で右利きですが、左打ちに変えています。野球に詳しい人はわかると思いますが、右投げ投手が多いので、左打ちは有利ということからの左打ちへの変更です。どうでしょうか?日本中に多くの野球少年と親がいますが、ここまでさせる親がどれくらいいるでしょうか?

最近は「親ガチャ」(親からの遺伝的な才能と、家庭環境の良し悪しで人生が決まるという議論)だなんだと言われる昨今ですが、遺伝的な才能があっても、それを活かす環境がないと意味がありません。例えば、「お金持ちになる」や「東大に入る」ためにはどうすればいいのかというと、そういう人たちが集まっている学校や環境に身を置くのが一番の近道です。環境の影響は大きいのです。

花巻東高校時代の佐々木監督のインタビューが朝日新聞に長く掲載されました。これもとてもいい内容なので興味があるかたはウェブ版があるので探してみてください。彼はそこで「才能」というのは指導者で開花するというのは嘘だと言います。そして、育て方に正解はなく、これまでも大谷のような才能を持った選手はいたはずだが、東北の冬の練習方法など、歴史と伝統を重んじる野球において、指導や練習方法が原因で開花させられなかった。『指導とは本当に恐ろしい。想像以上に「こうしたもんだ」という常識に支配されている』と語ります。

俺にもなんらかの才能があったのに、その才能を活かせる環境に入るきっかけがなかっただけだと思う人もいるかもしれません。かつて作家の村上龍は、『いまの世の中、きっかけさえあれば誰だってできる、というバックグラウンドに支えられている。やらなかった人は、「自分にはきっかけがなかっただけ」と思いたいわけですよ。』といいました。村上龍の意見も今読むと、あまりに一面的なような気もします。

最近は、人間の「成功」において知能だけではなく、「コミュニケーションの力」「やり抜く力(GRID)」「人間性」が注目されています。簡単に言うと「努力やがんばり」が重要だということです。ただ、この「努力やがんばり」も遺伝的な影響が強いと言われていて、1958年から2012年までの1455万8903人の双生児を対象とした研究によると、「やる気」の57%、「集中力」の44%が遺伝的に影響されていることを示しています。つまりは努力できるかどうかの半分は遺伝で決まるということです。(※橘玲「無料ゲー社会」より)また、児童精神科医の宮口幸治氏は、ベストセラーになった「ケーキを切れない非行少年たち」の続編「どうしても頑張れない人たち」では、「がんばればできる」という残酷さを指摘しています。

ここまで、「遺伝的な才能」と「環境」、そして本人の「努力やがんばり」についてみてきました。それはある種とても残酷なことなのかもしれません。しかし、だからといって社会的なプラットフォームは、何かの才能をもった人間を生み出し、応援できるようなものでなければいけません。そうではなく、遺伝的な才能と親の資産も含めたコネだけが「成功」への道筋というのであれば、その社会は活力失い、停滞と自暴自棄なテロ行為に現れる怨嗟だけを生み出すことになります。

もうだいぶ長くなってしまったので、短くまとめますが、これまで日本人選手でメジャーで歴史に残る活躍をした選手は、野茂英雄とイチローと大谷翔平でしょう。(松井秀喜のシーズン最多本塁打は31本ですが、大谷は46本です。)この三人には共通点があります。大谷は、二刀流、野茂、イチローは共にそのフォームで、「それではプロではやっていけない」と、若いころからずっと言われていたのは有名な話です。つまりはこの三人のすべてが「歴史と伝統を重んじる日本野球」において、そこから逸脱している選手です。

日本の野球と社会は、「何かの才能をもった人間を生み出し、応援できる」ような状態であるのでしょうか。日本のプロ野球で活躍して、メジャーに渡った投手のほぼ全員が肘の手術(トミー・ジョン手術)を受けています。これは、高校時代の甲子園という頂点を目指し、身体ができていない若い頃からの投げ込みすぎが原因とされています。(※大谷翔平という奇跡を可能にしたものービデオニュースより)

ぼくたちは、ファン、部活、学校、親、メディア、野球界、社会の一人として「何かの才能をもった人間を生み出し、応援できる」ことより、既存のあり方を守ることを優先していないでしょうか。これは野球だけの話ではありません。この国はBBCが先の五輪で報道したところの「ガイアツ」、つまりは自らは変えることができないから、外から変えてもらうということを歴史的に繰り返しています。しかし、それはいつまでも終わらない対処療法でしかないはずです。それぞれの持ち場で、一人ひとりが発言、行動しなければ何も変わらないと今シーズンの大谷選手の活躍をみながら思いました。

「俺たちゃアパッチ野球軍」

この国でしてはいけない話に、野球、宗教、政治があると言われているが本当だろうか。

ぼくは野球にはほとんど興味がない。熱心にみた野球は米国に渡った野茂英雄とアニメ「アパッチ野球軍」だ。宗教に関しては身近な友人、知人に何かしらの宗教を信じている人は少ないが、いることにはいる。だからといってそのことでその人との関係や印象が変わったりすることはない。政治はどうだろうか。これには正直言って興味はある。興味があるというより、好きと言ってもいいかもしれない。誤解してほしくないのだが、ぼくは市議会議員になりたいとか、若手リーダー!(若くない)と呼ばれたいわけじゃない。さらにいえば、どこの政党を支持しているとか、どの代議士を応援しているとかいう「生臭い」話をしたいわけでもない。

確かにぼくはここのコラムでもときどき政治の話をしている。それにこの連載枠を交互に書いている大浜紙さんとつくっているフリーペーパー「やうやう」でも、政治のネタで特集を組んだり、政治家のインタビューを載せたりしている。ぼくが政治に興味があるのは、この社会がどうなっているのかを知りたいからだ。そして、そこに生きている人が何を考え、どんな面白いことをやっているのか、そんな話を聞きたいと思っている。そういう意味では別に政治家にこだわって話を聞きたいわけではない。医療関係者や建設業、職人に農業、畜産関係の人からも話を聞きたい。ただ、裏話的な話をすると政治家にはその職業の特質上か、表にたって自分の意見や考えを話すことに抵抗がない人が多い。フリーペーパーを作っている人間からするとそういう人はとても助かるというのもある。

そんなわけで、ぼくはこれまでもこれからも政治の話やネタで何かを発信することを続けるのだと思う。ただ、誤解してほしくないのだが、ぼくはこのコラムやフリーペーパー「やうやう」で、なにかしらの考えを流布したいわけでもないし、ましてや何かしらのイデオロギーだけで集まってフリーペーパーをやっていきたいわけでもない。この町に住む色々な人の考えや意見を聞いてみたい、それがぼくが考える政治であり、それが町をつくるということだと思っているだけだ。そういうのは面白いじゃないか。

とはいえ、先に書いた「野球、宗教、政治の話はしない」という話でいうと、公の場で気にせず政治の話をする人はとても珍しい。だが、冷静に考えてみると、野球も宗教も興味や関係ない人にはどうでもいい話だが、政治はこの社会に住むどんな人も関係あるものなのに、不思議なものだ。

不思議と書いたが、その理由もわっかっていて、前回も書いたこととも関係あるが、結局多くの人は政治に対して、野球や宗教と同じように、贔屓のチームや自分が所属しているかどうかという観点でしか考えていないからだと言える。もちろんそういう人もいることを尊重したいし、そいう人たちがいるから道路も野菜も作られているのかもしれない

ぼくが言いたいのは、主権者はぼくたち一人ひとりなのだから、話すも話さないもそんなものは自由であるべきだということだ。例えば、先の総選挙でぼくと誰もいないところで話すと「仕方ないので投票はするが、もういいよね。新しい人いないのかな?」と多くの人がそう言っていた。どうだ。政治の話は面白いじゃないか!

アパッチ野球軍の歌詞に

たまにゃサードへ逆走するが
度胸!度胸!度胸ひとつが財産さ
しかし恐いぜ、逃げないぜ
俺たちゃアパッチ野球軍~

とある。
みんなこの精神でどんどん話そうぜ。

 

 

夕日と夕陽。

先日、 あるご縁から辻田真佐憲さんとご一緒させていただくことがありました。辻田さんは評論家、 近現代史研究者でその仕事を見たことがある人もいるかと思います 。

辻田さんはここ大隅の歴史的な資料、 史跡を見てまわる取材でいらっしゃいました。二階堂家住宅跡地、 吾平山稜など誰もが知っているところから、 肝付町の神武天皇御降誕傳說地など、 こんなところがあったのかと、とても興味深い体験でした。

その中にはすぐ近くにある零戦を格納していた掩体壕(えんたいごう) もありました。これは、 この地から特攻隊が飛び立ったという歴史的な価値のある史跡です 。ただ、僕は恥ずかしながら子供のころから「防空壕」 と呼んでいたので、 すっかりあの史跡は防空壕と思い込んでいました。

小さい頃の僕は父親と夕方の散歩に行っては、その「防空壕」 の上に乗って遊んでいました。そして記憶の「防空壕」への道は、 わだちの間に枯草が帯状につづく細いじゃり道でしたが、 今ではしっかりとしたアスファルトの道路に変わっており、周りにあった黒土の畑は、 資料としての掲示板が建てられた広い駐車場になっていました。

 

驚きました。僕にとっての「防空壕」は、 その土地に溶け込んでいるナニカでした。 それは子供の遊び場であり、周りは雑草も多く、 コンクリートの塊であるとはいえ、そこはただの畑の一部であり、 雨が当たらないから便利だと、 たい肥を山にして置く場所でしかありませんでした。 ずっとそのナニカのままだと思っていました。

その後の取材でもいろいろな場所に行き、 夜には私の息子も含めて三人で食事に行きました。おでんの「 黒じょか」に行き、ふだんご一緒できるようなことはないので、 聞けないような、話せないような話をずっと二人でしていました。 二次会で「716」にも行き、 そこには友人たちも偶然やってきて、 辻田さんも含めてみんなで楽しくお酒を飲みました。 辻田さんはとても親しみやすい人なので、 僕の友人たちも含めみんな楽しく過ごせたと思います。

僕もとても楽しかったです。楽しかったのですが、 それと同時にこうも思いました。 僕は友人たちに辻田さんのことを紹介はしましたが、 友人たちにはおそらく彼がどんな人物でどんな仕事をしているのか は、伝えはしても理解はできなかったと思います。 自慢したいわけではなく、それでいいと思いますし、 彼もそんなことを気にするような人ではありません。 それはまるで、 いま乗って遊んでいるものが歴史的な文化財だと分からずに遊ぶ子 供やただ便利だと畑仕事に使われるのに似ているようにも思いまし た。そして、繰り返しですが僕はそれでいいと思うのです。 僕が好きな「知的好奇心や知識」 みたいなものを僕が仮に持っていたとして、 それと同時に身近な友人たちと話ができなければそれにどんな意味 があるんだろうと。

僕は教養もないのに、このような文章を書いています。 僕を知る多くの人が「あいつは変なやつ」 と思っているのも知っています。それでも、 僕はいつかわかってほしいと思っています。 一緒に面白がってほしいと思っています。 本当にそんなことができるのか。 できたとしてどれくらい時間がかかるのだろうか。

それは何も知らずに、若い父親と「防空壕」 に乗って夕日をながめていた小さな僕が、 その経験のさまざまな意味をこの歳になって少しは理解したように 、同じくらい小さい息子が、僕がしていることや、 考えていることに、 いつかなにかしらの意味をもってもらえたらと思いました。

僕がかつて見たあのころの夕日、 かつてこの地で零戦が飛びたった夕陽。

それが歴史や時間というものの役割なのかもしれないと思いました 。

コロナ禍の夜に思うこと

「カラオケを葬式で流しました。」

カラオケスナックを経営している先輩から聞いた言葉です。その店は僕もよく行くのですが、家族のような接客が心地よく、年配のお客さんが多くいます。そこでは歌うカラオケをCDに焼くことができるらしく、ご自身の葬式でかけるために前もって録音するお客さんがいるそうです。

去年から今年にかけてのコロナ禍でも、多くの著名人が亡くなりました。志村けんさんや竹内結子さんなど、それぞれに思い入れがある人もいるでしょうし、中には身近な人が亡くなったという方もいらっしゃるでしょう。

僕は横田滋さんが亡くなったことがとても心に残っています。横田滋さんは、77年に娘のめぐみさんが中学一年生の下校時に失踪します。必死の捜索でも手がかりすら見つかりません。それから20年たったある日、ひとりのジャーナリストが夫婦の家を訪ねてきて、「もしかしたら、めぐみさんが北朝鮮で生きているかもしれない」と二人に伝えます。

数時間かけてご夫婦は熱心にその話を聞き、彼が家を離れるときには、本当に嬉しそうに最後まで手を振って見送ったそうです。そこから横田滋さんは日本各地の被害者家族とともに家族会を結成して、なかなか動かない政府と世論を相手に地道に活動を広げていきます。

そして2002年には、小泉訪朝で北朝鮮側と交渉がはじまります。しかし、そこではもうめぐみさんが死んでいると北朝鮮側からの報告を伝えられます。それと同時にめぐみさんのものだと遺骨を渡されます。そのときの記者会見で滋さんが「いい結果が出ることを楽しみにしていたが、こんな結果とは…」と涙ながらに語っていた姿を多くの人も覚えているのではないでしょうか。しかも、これでも終わりません。持ち帰った骨を鑑定すると、どうやらめぐみさんの遺骨じゃないことがわかりました。そのとき、どんなお気持ちだったのか想像だけでも心がいたみます。

滋さんたちは、2014年には孫のウンギョンさんとモンゴルで会います。(ヘギョンの名が知れ渡ってましたが、本名はウンギョンで、ヘギョンは幼名)孫と過ごした5日間はそれはそれは楽しい時間だったそうです。

そんな滋さんが2020年6月5日、入院先の病院で亡くなりました。


1950年代の日本人は9割は自宅で死んでいました。それが現在は、9割は病院で亡くなっています。自宅で亡くなる人と、病院で亡くなる人の割合がちょうど交差する時期は、めぐみさんが拉致された時期と奇しくも重なります。

私たちは人の人生を外からみて、それが断片的で一面的な見方であっても、それを参照にして自分の人生を鑑みるものです。それは倫理的に正しいとか正しくないということではなく、人とはそういうものです。あの素朴で優しい語り口の滋さんには、他人には想像もできないような人生のドラマがあったことでしょう。その最後をどのような気持ちで迎えられたのでしょうか。誰もがそれぞれの人生があり、その最後をどのように迎えるか、予想通りには行かないとわかっていても、考えることはできます。

このコロナ禍では、完全な社会の悪者となっている、カラオケやスナックですが、東京都立大学教授で「スナック研究会」を主催する谷口功一氏は、夜の社交の場としてそのような店が「公共圏」として役割を果たしていたと訴えています。例えば地方部では公的助成を受けた「夜の公民館」的なスナックや、要介護者のための「介護スナック」といった取り組みもあるといいます。

冒頭のカラオケスナックの経営者は生前に録音したカラオケを葬式で流し、遺族の方から、こんな一面もあったのか、元気な声がまた聴けてとてもうれしいと、これまで何度も感謝されたそうです。

横田滋さんの妻早紀江さんは、ほぼ毎日のようにお見舞いに通い、手足などをさすって話しかけていましたが、20年春からはコロナ感染防止のため面会もできなくなりました。そして最後は、孫のウンギョンさんにもう一度会いたいと、滋さんはおっしゃっていたようです。

感染防止も大切ですが、横田滋さんの人生を思いながら、たまにはスナックやカラオケでお酒を楽しんでみてはいかがでしょうか。

 

 

「総裁選の前にあらためて考えたいこと」

 

あれだけすったもんだあったオリンピックが終わったあとは、パラリンピックが始まり、そしてそれも終わりました。今回のコラムくらいは暗く硬い話はなしで、パラリンピックについてゆっくり話したいと思ったのですが、それも許してもらえないかのように、菅総理が不出馬を決めて、世間は自民党総裁選の話でもちきりです。

ただ、それもおかしい話なので、パラリンピックについて一言だけ。
個人的にはブラインドサッカーと車いすバスケットボールは本当にすばらしかったです。選手たちの、プレイのスピード、激しさ、テクニックに興奮を覚えました。特に海外のトッププレイヤーの技術には(このような表現は不適切かもしれませんが)十分にスポーツ観戦として見応えのあるもので、これからは毎回パラリンピックの放送があることを期待します。子供と一緒に見ることもできて、とてもいい教育にもなったと思います。

さて、総裁選です。

今日現在(9/11)では、高市氏、岸田氏、河野氏の三人が出馬しています。リベラル側の一部には、石破さんを中心に安倍さんの桜を見る会や森友・加計問題を追求することに期待をしていた人もいるようですが、石破さんが推薦人20人も集められない状況に、それはどうやら夢と消えました。出馬している三人は安倍さんの後ろ盾、禅譲をいただこうと、桜・モリカケ問題は三人そろって再調査はしないと明言しています。それはつまり、安倍さんの桜・モリカケの問題を追及するのか、しないのかという争点から、細田派(安倍氏)、麻生派の150人の得票を誰がつかむのかを争うゲームになったと言えます。

ここで考えなくてはいけないことは、石破氏が党内で力が弱いことや、本来はリベラル派と言われている河野氏や岸田氏が、ひよったことを批判することではなく、自民党員はじめ多くの国民がリベラルな政策や不正をただすというようなことをできると、政治に期待していない状況そのものにあるはずです。反安倍やリベラルと自称している人たちは、そんな腐敗政治は許せない!自民党は権力の乱用、不正義だ!と言います。私もふくめ、多くの日本人は安倍氏の秘書が桜を見る会の問題で、安倍さんに相談せずたった一人で何百万円も使ったなんて話を信じている人はいないはずです。そんなことはみんなわかっています。わかっていても「だからといって、あんたら(リベラル側)には任せられない」って思われているのです。この現状そのものを変えなくてはいけないのです。

では、どうすればいいのか。それはこの30年ものあいだの新党乱立の時代で何もできなかったことを反省し、一から30年かけて作り上げるしかありません。党を作ればいいだけではなく、メディアを自分たちでつくり(ネット保守系メディアのような)、支持者が集まるようなコミュニティをつくり(JCのような)、後継者を育てるしかありません。それは「風」が吹けば候補者を東京から地元に呼んで、地元の後援会を急場しのぎで作り出馬をするようなことではないはずです。そんなことで勝てると思っていることを恥じるべきです。30年とは言いません。2008年の政権交代から地道に全国各地でそのような活動を続けていれば、今のような馬鹿げた政治状況にはないはずです。

あらためて最近の政治状況を見ると。桜を見る会、森友・加計問題、公文書偽造、自衛隊の日報隠し、解釈改憲、格差拡大、もはや先進国とは言えないような経済状態、そして今回のコロナ禍。これだけ集めても立憲民主党の支持率は6%前後で、リベラル側は全然だめです。それはまるでサッカーのPKでキーパーが毎回転んでいるのに、シュートを外し続けているようなものです。政権交代どころか、安倍さんの問題で国民の後押しももらえないことをリベラル側は反省するべきです。反省では足りません。全員坊主になったほうがいい。

自民党も安泰のように見えて、その本質はどんどん変わっています。あまり知られていないことですが、2008年の政権交代のとき自民党は惨敗しましたが、そのときの得票数を超えてるのはこれまで一度くらいしかありません。つまりはこの10年ちかく圧倒的に議席を確保していますが、得票数では右肩下がりです。(「自民党 得票数」で調べてみてください。)そのため、自民党自体も昔ながらの地元に根差した政策はなかなか取れずに、新自由主義と呼ばれているような政策に舵を切らざるをえないような状況です。その結果はどうでしょう。格差だけは拡大して韓国にも多くの経済指標で抜かれています。

私は鹿屋で小さな商売をしているのですが、地方の経済状況は悪くなるばかりです。けれど、そんなこともお構いなしに、数合わせゲームとしての政治がただ遠くで行われているだけのように見えます。いつになったら、政策や社会システムの方向性を争うような政治がやってくるのでしょうか。もう、自民党だけだと無理がある思うのですが、リベラル側がこんな体たらくならそれも夢と消えるのでしょう・・・。

次こそは、お気楽な話題で書きたいものです。

土屋耕二

 

 

南九州新聞に寄稿したコラムです。

コロナの陰謀論とコロナとの共生について

「コロナの陰謀論とコロナとの共生について」

 

WEBをひらくとフェイクニュースと呼ばれる真偽不明な情報やニ ュースが溢れています。例えば、 トランプ大統領がいまだに核のボタンを持っているとか、 スマホの5Gは問題だというような内容です。
インターネットが原因であるようにも思われる陰謀論ですが、 そんなことはありません。
ある年齢以上の日本人はハンバーガーチェーンの肉が実は○○だ。 なんて話を聞いたことがあると思います。 歴史的にも占領期の連合国軍総司令部(GHQ)による「ウォー・ ギルト・インフォメーション・プログラム」や、 中国の日本侵略計画と話題になった「日本解放第二期工作要綱」 などもそれに入れてもいいでしょう。 戦時下には自国民に嘘の情報を流すことは日本でもありました。

陰謀論の原因には諸説あるようですが、 何か新しいシステムや技術、 価値観などが広まるときに陰謀論がそれについて回ると言われてい ます。例えば、理髪業が生まれて、 それまで知らない他人に髭を剃ってもらう文化がない社会では、「 あそこで髭をそると殺されて、肉団子にされる」 といった噂が広まったりしました。( 実際にイギリスのある町で理髪店の隣に肉屋があり、 それが陰謀論のはじまりだということもどこかで読んだことがあり ます。←これも陰謀論かもしれませんが・・・。) 先にも書いたハンバーガーチェーンの陰謀論もそれまでの日本社会 にはないグローバルチェーンの飲食店が、 それまでの食文化には存在しなかった食べ物をひろめることで、 人々の不安や興味が陰謀論へとつながったのでしょう。

いまはコロナという誰もが予想していなかった感染症が原因で世界 中が大混乱です。コロナ禍の陰謀論をいくつか例にあげると「 コロナは中国の生物兵器だ」「 エボラとエイズを混ぜた人工ウイルスだ」というようなもので、 中でも多いのは「ワクチンは陰謀だ」というものです。

誤解してほしくないのですが、 私はこれらの陰謀論を馬鹿にしたり、 笑ったりしたいわけではありません。例えば、 ワクチンの承認に関しては日本人の治験は行われていない。 承認が早すぎるという疑問点は普通に多くの人が持つと思います。 これも厚労省のHPに「日本国内でも、日本人を対象に臨床試験( 第Ⅰ/Ⅱ相試験)を実施し、安全性や免疫原性( 抗体の産生や細胞性免疫を誘導する性質) があること等が確認された後、特例承認を受けています 」と説明はあります。こういった素朴な疑問もそうですが、 陰謀論が広まる最大の理由は「 このコロナは何をしたら治まるんだ?」 と多くの人が疑念を持っていることにあるでしょう。

去年4月には最初の緊急事態宣言がでて、 そのときの政府と専門家は、 ここさえ乗り切れば日常生活に戻れます。人流を抑えなければ、 40万人死にます。などと発言していました。 その後どうでしょうか?東京都に限った話でいうと、 今年に入って緊急事態宣言とまん延防止等重点措置が8か月間も続 いています。どこが緊急事態なんだと言いたくなります。他にも、 陰謀論の問題は感情の問題なのであまり数字で話したくはないので すが、日本全体の感染者数を見ると、 今年のGWは一日5000人から7000人の感染者数で、 現在は20000人を超える状況です。対して、 一日の死亡者数はGW期間が100人に迫る状況でしたが、今( 8/28)は50人に行くか行かないかという死亡者数です。 この数字をどう見るかは専門家や個人の見解があるのかもしれませ んが、ワクチンは効いていると言わざるを得ません。ただ、 残念なことにワクチンを二度打っても感染するという事例が世界中 で多発していることもわかってきました。アメリカや欧州などは、 一時期抑えられていたときもありましたが、 現在はまた爆発的に増えています。 私もワクチンが開発されたら日常生活が戻ってくると思っていまし たが、どうやらそのような状況にないようです。

ここまでの状況をまとめると自粛してもだめ、 緊急事態宣言も長すぎるし疑問点だらけ。 死亡者数をみるとワクチンは効いているようだが、 変異種にはどうやら効かないようだし、 そもそもワクチンの効力も数か月らしい。
さらには「ベッド数は世界一」 の日本でコロナ前から起きていた医療現場の問題」https:/ /president.jp/articles/-/42285
という記事がネットにありますが、 数的には少ない公的な病院がコロナの患者を9割担い、 数的には8割近くある民間病院は1割のようです。このように、 もうなにがなんだか理解できない、これはおかしい、 絶対になにかある、 という気持ちになるのも仕方ないと思うのです。


そろそろ、この論稿もまとめに入りたいと思います。
以上のように多くの人が、おかしい、 何かあると思ってはいるでしょうが、 冷静に考えるとウイルスとはそもそもそういうものだったはずです 。インフルエンザにしても、 エイズにしても感染を防ぐことは自由な人間社会があるかぎりゼロ にはできないし、ウイルスの根絶はできません。 インフルエンザも年間3000から10000人死んでいました。 それでも毎年のようにワクチンを打ち続けて私たちは生活していま した。学校で感染者が多く出たら、 学級閉鎖をして他の人は普段通りに学校生活を続けて対応していま した。多くのイベントも行きたい人行き、 行きたくない人はいかない。 そのようにして生活していたはずです。 最近はロックダウンについても議論されていますが、 この国で可能なのかという議論もありますし、 これまでロックダウンをしてきた多くの国が現在感染が広がってい ます。

感染には気をつけつつ、ワクチンを接種して、 病床拡大を社会的にすすめる。しかし、 ウイルスはそんなことはお構いなしに存在するし、 根絶はないことを覚悟する。私たちは生活をまもり、 他の人たちがすることには目くじらを立てずに、感染したり、 うつしたりすることをある程度許容しつつ、 病床拡大にも限界があるので、 インフルエンザがそうだったように、 ある種のあきらめをもって生活していくことがコロナとの共生だと 思うのですが、いかがでしょうか。

小山田圭吾氏のいじめ問題について

小山田圭吾氏のいじめ問題について


オリンピックの開会式も終わりました。 五輪関係であった多すぎる問題の中でも小山田圭吾氏のいじめ問題 について書きたいと思います。

雑誌「ロッキング・オン・ジャパン」 94年1月号に掲載されたインタビューで氏が話していた中学時代 のいじめエピソードが各方面で引用、議論されています。 本人もいじめを認めて、反省、謝罪もしているので、 別に擁護しなくてもいいのかもしれませんが、そもそも「 ロッキング・オン・ジャパン」 は原稿チェックがない雑誌だったようです。 当時の音楽業界は景気もよかったからか、 同誌は広告を出さないと記事やインタビューが載らないという、 普通とはちがう雑誌でした。 そこで問題のいじめ自慢の記事が載りました。 そしてそれを見た当時の太田出版のライターが「クイック・ ジャパン」という雑誌で、「いじめ紀行」 という連載の第1回で小山田氏の長時間のインタビュー( ただの打合せという見方もできますが) が長い記事として掲載されました。

今現在の拡散されているブログや報道には、 小山田圭吾氏の人間性はまったくないというような印象ですが、 それは主に「ロッキング・オン・ジャパン」 に掲載されたインタビューによるものです。最近になって、「 クイック・ジャパン」の「いじめ紀行」 に関しては全文がネットで読めるような状況にあります。 さらに当時の関係者である北尾修一氏の、 今月いっぱいしか公開しないブログを読むと、 まるで異常者のような小山田氏の印象も変わります。 興味がある人は調べてみてください。(「いじめ紀行」 もいろいろと企画時の言い訳を書いていますが、 決して褒められたものではないと私は思いましたが。)

「クイック・ジャパン」の「いじめ紀行」に関しては読むと、 少しは小山田氏の人間性のようなものも感じることができる内容で す。(そこでは「ロッキング・オン・ジャパン」にあったような、 うんこ食べさせたり、 自慰行為を自分が強要させたりしたという話は出てきません。 それについてどう思うかは読者ひとりひとりで判断したらいいと思 います。)

私がここで言いたいことは、 小山田圭吾氏のいじめをしていたことや、それに対して( 95年当時は) 反省もないように見えることを擁護したいのではありません。

掲載されたものはもうどうしようもないですが、 現在の小山田氏を糾弾するのであれば、 同じように原稿チェックもなく掲載した「ロッキング・オン・ ジャパン」や、太田出版の「いじめ紀行」を連載していた「 クイック・ジャパン」 の関係者に対してもその矛先が向かうべきではないでしょうか。「 ロッキング・オン・ジャパン」も「クイック・ジャパン」 も当時の編集長や太田出版の社長が謝罪文を公開しています。 それは、 形だけのものと批判されてもおかしくないようなものです。 太田出版の「クイック・ジャパン」に関しては、 2012年にはいくつかの号が復刊される機会があり、「 いじめ紀行」 の連載があった号も100部ですが復刊を行っている事実をみると 、 そこには出版社として謝罪や反省の気持ちがあったとは思えません 。

あと90年代という時代そのものがそんな時代だったという意見も 多くみられます。
「世紀末を生きる僕たちが最後に頼れるのは、生命保険会社でも、 破綻している年金制度でもない。 その気になればいつでも死ねるという安心感だ! 自殺の方法を克明に記し、さまざまな議論を呼んだ、 聖書より役に立つ、言葉による自殺装置。」と紹介された「 完全自殺マニュアル」(鶴見 済)は100万部を超えるベストセラーだったし、 95年は地下鉄サリン事件、アニメのエヴァンゲリオン、 97年には神戸連続児童殺傷事件がありました。( ちなみに少年Aの本「絶歌」も太田出版で、編集者は「 完全自殺マニュアル」を担当した女性)他にも97-99年「 テレクラキャノンボール」が一部の人たちに熱狂された、 そういう時代でした。 その当時には悲惨ないじめ自慢を雑誌に載せても許される空気があ ったのも事実だったと思います。

当時を知る人はわかると思いますが、 あのころは暴力が普通に公のところで横行していました。 学校での体罰は当たり前で、例えば、 生活態度や部活動での指導で、 中学生や高校生をバンバン殴っていた先生がどこの学校にも一人は いました。暴力だけではありません。 部活動の合宿で男性教諭の背中を女子高生が一人ずつ風呂で背中を 流すなんてことも、ここ鹿屋でも普通に行われていたりしました。 これらのことは、 大人であったその他の教員も知っていたはずです。

現在は、「本音」と「建て前」という対立で見ると「建て前」 が政治的な正しさ追求によって全面的に出張っている時代と言えま す。2021年の現在も悲惨ないじめや暴力はなくなってないし、 普段は正しいことを言っていても、 身内や上司には何も言わないというようなことがどこの職場やグル ープにも横行しています。

本来なら、 今回の騒動を契機にいじめについてあらためて考えるいい機会です 。子供も大人も、 どこにもいじめは存在するという前提で社会全体が考えなければい けないはずです。しかし、そのような議論もまったくなく、 小山田氏の仕事が減るだけで、社会は何も変わらないでしょう。 オリンピックが始まれば普通に盛り上がり、 忘れていくのでしょう。
いま行われている小山田氏へのそれこそ「いじめ」 のような状況を見る限り、そこで得られる教訓や議論は「 ネットでの炎上は怖い」、「発言しないほうが得だ」 というようなことにしかなっていないように思います。 それはさらに「建て前」 だけが強くなっていくという悪循環のように見えます。