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「コークスが燃えている」櫻木みわ

櫻木みわ著「コークスが燃えている」これは集英社の文芸誌「すばる四月号」に掲載された小説です。

40歳目前の非正規雇用である「ひの子」が妊娠をきっかけに、立場の弱い女性たちから支えられたり、励まされたりして過ごす話です。妊娠という女性しかできない体験、身近に助けになる人や里帰り出産ができない人の不安を描きます。それと同時に「ひの子」の出身地である九州の炭鉱で、かつて多くの働く女性たちが助け合って生きていた話を重ねることで、先が見えない不安な状況に対して支えあえる生き方をしめす道標のような作品です。

私はこの作品にいわゆる社会的な「弱者」が助け合う物語という、やや一面すぎる読み方で読んでしまいました。(実際には、この感想では収まらない重層的な話が紡がれているのですが)それは「コークスが燃えている」を読んでいる同時期に、宮崎学のヤクザ関係の著作や雨宮処凛の著作を読んでいたのが影響していると思います。

自身も京都のヤクザの組長の息子である宮崎の著作では「コークスが燃えている」でも出てくる筑豊炭田で大親分として統率していた、近代ヤクザの原型といわれている吉田磯吉が登場します。
磯吉のもとには社会的に虐げられた者たちが集まり、共同体を作っていました。
例えば、被差別部落の出身者たちは、差別されて職につけません。そこで彼らがヤクザの組長を頼るというのは、それがヤバい仕事であったとしても、ある種のセーフティーネットとして機能していました。
ヤクザという生き方は、犯罪や暴力など不安定で迷惑なものだったがそれと同時に、ヤクザは社会と地続きでありました。庶民たちの生活秩序が崩れたときに、もともとの秩序に戻す「汚れ仕事」をしていたのが彼らであり、そういう意味では共同体にとってヤクザはその一部でありながら、やはり異質なもの、非日常的なものだったようです。(宮崎学著「ヤクザと日本」)
本来「弱者」であるヤクザたちが、暴力と暴力がぶつかり合い秩序が崩れる中を「顔」と任侠道でまとめ上げ、秩序を回復させていたという記憶が残っていたからこそ、70年代までの日本ではヤクザ映画が多くの人に愛されていたと言えます。


しかし、現代社会ではどうでしょうか。「非正規」「経営者」「ニート」「地方出身」「弱者」「成功者」それこそ「ヤクザ」でさえも、見た目ではその区別はわからず、しかも多くの場合が同じような社会サービスを享受できるのでそこには区別はありません。そんな疑心暗鬼的な状況だからこそ多くの人たちは自分が「負け組」と見られないよう取り繕うことに躍起になっているともいえます。
雨宮処凛の著作を読むと、生活保護を受給することに異常とまで言える拒否反応を示す人たちが多く登場します。所持金が30円しかないのに生活保護だけは絶対に嫌だという人や、事業再開の資金を貸付してくれるだけでいい、昔の仕事相手に電話すれば金は何とかなると訴える、携帯もすでに止まっている元経営者が登場したりします。そこには「負け組」と見られたくないということを、それこそ命よりも重要に思っているかのような印象をうけます。

私たちは社会で同じような服を着て、同じようにスマホを持って、同じようにSNSを利用して、同じように生きているように「見えます」。
しかし、それは表面的なことであり、本来はそうではありません。
「コークスが燃えている」では、後半、立場を超えた連帯やつながりの可能性を描きます。
しかし、私たちは、見た目で区別がつかない状況で、しかもこのコロナ禍の状況で、宮崎学的な「弱者どうしの連帯」が生まれることはそうそうない。そのことも知っています。そのことのやるせなさも「コークスが燃えている」が私たちに投げかけているものの一つだと思います。
本当に素晴らしい作品ですので、ぜひお読みください。