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「SNS的どぶ板」

日置市で県政史上、最年少の市長が誕生したようです。
当選した永山氏には、その若さもあり多くの人たちが期待を寄せています。


私は新市長がどんな方なのかは存じ上げていないのですが、彼は自身のFacebookで「私は、対立候補と戦っているのではありません。未来を諦めようする空気と戦っているのです。」と発言しています。とてもいい言葉だと思いますし、率直に申し上げてうまいなぁと思います。
私の友人、知人の多くが(本当に多くの人が)、SNS上で応援していました。それだからこそ厳しい選挙戦を勝ち抜くことができたのだと思います。
永山氏がいうところの「未来を諦めている」代表のような人間である私は、日置市民でもない多くの人が(自主的に)動員され、発言しているのを見ていると、ある話を思い出しました。

「△△は一回しか支援のあいさつに来なかったが、〇〇は三回家まで来た、あいつは頑張ってる」なんて理由で候補者を選んでいるという現実が田舎の選挙だ。と、ある人が私に語ってくれました。
今回の日置市長選での一部の盛り上がりは、核の最終処分場が争点になった南大隅町長選挙でも見られなかったことです。そこにあるのは争点や政策は関係なく結局は「人がら」であり「付き合い」なのだろうと思います。
私には、その場が田舎のどぶ板選挙かSNS上なのかの違いはあっても、基本的になんら変わらないように見えます。
それをここでは「SNS的どぶ板」と呼ぶことにします。

私の考える「SNS的どぶ板」はこうです。
まず、大きな目標やビジョンを立ち上げる。そこには実績や評価は関係ありません。空手形でもいいのです。(クラウドファンディング的)
次にそこに集まってきた人間でクローズドなグループをネット上につくり、そこに所属していることで、一人一人の居場所づくりになっています。(オンラインサロン的)
そして、それぞれがクローズドなところで盛り上がった議論や主催者の想いを、それぞれの自主性に基づいて発信しているかのように雰囲気をつくり、それぞれが発信をしていきます。(いいね、RT的)
勘違いしてほしくないのですが、私はそれを否定しているわけではありません。こんなことはネットに置き換わっただけで、なにかのイベントの実行委員会から、宗教団体、政治団体、LINEグループなどどこにでもあるやり方です。(一昔前は大学に入ると、色々な団体から鍋パーティーに誘われて、研修会に参加するという流れがありました。)
特に新しいことではなく、なんら変わっていないということに、私は希望を感じないのです。

これまで、なんども新しい希望のようなものは出てきました。それは人によっては小泉純一郎だったのかもしれないし、民主党、橋下徹、小池百合子、あるいはN国もそうだった人もいるのかもしれません。国政だけではありません。三反園前知事だって登場したときは大きな期待を集めました。
政治家だけではありません。ネットで政治が変わる、SEALDs、スローフード、地方分権、まちづくり、町おこし協力隊、カンパチロウにバラ王子(これは冗談ですけど)、そして最近はSDGs。

『SDGsは「大衆のアヘン」である』の書き出しで始まるのは、斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』です。かつてマルクスが、宗教は人間社会の厳しい現実を和らげる「大衆のアヘン」だと批判したことにならって、SDGsは現代版「大衆のアヘン」になっていないかと氏は言います。それにならうと、私は「SNS的どぶ板」の盛り上がりは「大衆のアヘン」になっていないかと危惧するのです。

新しい若い政治家に私としても期待はしています。してはいますが、この社会の閉塞感、今のままではおかしいという訴えの根幹は、行政権に市民が関われないことです。最近では、コロナ禍の対策、入管難民問題や、小さな道路建設にはじまり、生活保護水際作戦問題、垂水新庁舎建設、南大隅町最終処分場などもそうです。(紙面もありますので、詳しくは國分功一郎「来るべき民主主義」を参考ください。)
新しい市長や、応援している人たちは、この行政権になんら関われない現実に対して何らかの制度を整えられるのでしょうか?これには大変な政治的リソースが必要です。
私たちは、もう大きな改革や新しい社会づくりは無理だと思います。やれることは、とても地味で、長い時間かかることばかりで社会と関係ないように見えるものばかりです。それは、それぞれの仕事だったり、家族だったり、ものづくり、芸術活動だったりすると思うのです。


若い人たちは仕方ないのかもしれませんが、未来を諦めたところから始めませんか?